映画『スワンソング』の感想・ネタバレ:我が道を行った先達へ
トッド・スティーブンス監督の映画『スワンソング』を観たので、作品情報につづいて感想を書き残しておきます(すぐ下はネタバレなしの感想)
ラスト・結末までの簡易的なネタバレは「あらすじ」の項にまとめているので、鑑賞後のおさらいや予習用に読みたい方はそちらを参照のこと。
映画『スワンソング』の作品情報
監督・脚本
- トッド・スティーブンス
映画『お願い!チェリーボーイズ』(2006):監督・脚本
役名/キャスト
- パット(パトリック・ピッツェンバーガー)/ウド・キア
映画『異端の鳥』(2019):ミレル役 - ディー・ディー/ジェニファー・クーリッジ
映画『キューティー・ブロンド』シリーズ(2001,2003):ポーレット役 - リタ/リンダ・エヴァンス
TVドラマ『ダイナスティ』シリーズ(1981~1989):クリストル役
予告編(字幕版)
あらすじ
かつてヘアメイクドレッサーとして活躍した「ミスター・パット」ことパトリック・ピッツェンバーガー。ゲイとして生きてきた彼は、最愛のパートナーであるデビッドを早くにエイズで亡くし、現在は老人ホームでひっそりと暮らしている。そんなパットのもとに、思わぬ依頼が届く。それは元顧客で親友でもあったリタの遺言で、彼女に死化粧を施してほしいというものだった。リタのもとへ向かう旅の中で、すっかり忘れていた仕事への情熱や、わだかまりを残したまま他界したリタへの複雑な感情、そして自身の過去と現在についてなど、様々な思いを巡らせるパットだったが……。
- 映画『スワンソング』ラスト・結末のネタバレ(※押すと開きます)
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パットは決意した。店主と顧客という垣根を越えた仲だと思っていたのに、よりによってパットと仲違いする形で独立した元スタッフ、ディー・ディーの店の顧客となってしまったリタ。彼女のための死化粧はやはり自分が施そうと。
なけなしのお金をはたき、ときには万引きをしてでも化粧道具の調達に走るパットは、生産が終了していたリタ愛用のヘアスプレー「ヴィヴァンテ」を仇敵のディー・ディーが所有していると知り、彼女の店に盗みに入る。
結果としてはすぐに見破られ、ディー・ディーからは「かつてのスターが酷い落ちぶれよう」「惨め」などとさんざんな貶され方をしたものの、彼女からの憐れみを込めた餞別の品としてヴィヴァンテ自体はなんとか手に入れることができたのだった。
しかし、いまから化粧を施すのは完璧主義の元顧客であり、親友であったひとであり、死者である。パットといえど心の準備が付かず、結局、亡きリタのもとに赴くことができたのは、親族から希望されていた予定時間のだいぶあと。すでに遺体は葬儀場へと移っていた。
初めてリタの遺体を見たパットは、そのあまりの状態の悪さにさきに葬儀場をあとにしていたディー・ディーを呼び戻すよう叫ぶが、そんな彼の前にリタの幻影が現れ、語りかける。
その内容とは、やはり死化粧はパットに頼みたい旨、そして、懺悔であった。
リタの幻影はデビットの死因がエイズであったことから、当時周りにいた多くの人々と同じように彼の葬儀を忌避してしまったことをずっと後悔していたと語ると、パットに謝罪する。
その言葉を聞いたパットはまるで憑き物が落ちたかのように、棺のなかで眠るリタの死化粧へと取り掛かった。現役を離れてもなお、パットの腕は落ちていなかった。かつての美しさを取り戻したかのようなリタ。その顔は安らかだった。
リタの孫ダスティンはそのみごとなメイク術に感激し、死化粧を終えたパットに生前のリタと交わした、ある会話の存在を伝える。それはダスティンがリタに対し、ゲイをカミングアウトした日のこと。リタは「大丈夫。私の親友もゲイよ」と答えたという内容だった。
話を聞いてか聞かずか、パットは手に持っていたタバコを落としてその場に倒れ込んでしまい、そのまま二度と息を吹き返すことはなかった。彼には以前から、病魔の影があったのだ。
担架で運び出されるパットの足には、唯一、彼がそのセンスの良さを褒めていたリタの靴がおそらくは遺体から盗まれ、履かれていた。
映画『スワンソング』の感想
ウド・キアーが輝いている!こんなウド・キアーみたことない!(※予告編参照)
と、そこまで言われてしまうと、やや、それじゃまるで普段は枯れてる萎び系俳優みたいじゃんかよー!とは思ってしまうのだが、じゃあ、こんなボディビル大会のかけ声みたいなコメントを寄せられるほどのウド・キアーはいったいどんな仕上がりになってんのよ?と、俄然、興味は湧いてしまうものである。
で、この映画『スワンソング』を観てみた。なるほど、これは輝いている。そして、これはいまのウド・キアーだからこそ出せる輝きだと思ったし、いい意味で(と言っておけば許されるわけではないのだが)萎びてもいることが、後半、その輝きをいっそう際立てるためのよい土台となっていたように感じた。
また、ウド・キアーといえば特徴的なのが、あのアクアマリンのごとき瞳の色である。本作ではその瞳で相手の目をじっと捉えながらも「私は私。干渉しないで頂戴」とでも言うかのように顔を斜めにぷいっと逸らす振る舞いが多用されており、印象的に映った。
そこの部分、基本的に他人とは群れ合わないが、親しいひとの前でだけは大口を開けて笑い、深い愛情を見せる……いわゆる「古ガマ」としてよくイメージされ、ときに揶揄されるような、嫌みっぽくもパキッとした明るさのあるキャラクターを意識して演じていたのだろうか。
そう考えると、こんなウド・キアーみたことない!というコメントもこれまた的確なので、本作に対する感想は、このふたつを引用するだけでもいいんじゃないか??という気がしてきたが、さすがにもうちょっとだけ書いていくとする。
モア(峰不二子が吸っているのとおなじ銘柄のタバコらしい)の吸い方や、新しいアイテムを身をつけたときに自らの姿を鏡で確認する所作も美しかった。動物に例えるならまるでシャム猫のような。また、いかんせん顔が濃い〜ので、頭にシャンデリアなんか乗っけてダンスパフォーマンスをしていても似合う似合う。
これを年齢の近い日本人俳優を代表して藤竜也あたりがやってみなさいな。泥酔しているとしか思われない。石橋蓮司だったら?それはもうホラーだろう。やっぱりウド・キアーだ。
トッド・スティーブンス監督曰く「ミスター・パットのキャラクターはジーン・ワイルダーを意識して作り上げた」らしいけども、これを観るとウド・キアーで正解だったなと思う。
とにかく、ウド・キアーが輝いている!こんなウド・キアーみたことない!という部分に関しては「うんうん」と頷いて楽しめる作品であった。
さて、ここらでようやく物語の本筋に対する言及へと移っていく。
本作でのウド・キアーが演じているのは、自らもゲイであることを公表しているトッド・スティーブンス監督が故郷のゲイバーで出会ったという「ミスター・パット」こと、パトリック・ピッツェンバーガーをモチーフとしたキャラクターだ。
地元じゃ有名なヘアメイクドレッサーだった彼もいまは昔。入居中の老人ホームで残りの人生を消化試合のように過ごしていると、元顧客で元親友、そして地元の名士でもあったリタの死去と、葬儀の際の死化粧をパットに頼みたいという旨を記した遺言があると知らされる。
しかし、彼女は過去、ただ自らのもとを去っただけでなく、元スタッフであり仲違いする形で独立、パットの店に変わって有名店となったディー・ディーの店の顧客となっていたはず。
そのリタがなぜ、死化粧を私に施させるよう遺言を書いたのか?悶々とし、一度は依頼を断りながらも、パットはリタの最期のメイクアップに立ち会うため、老人ホームを抜け出して……というのがこの映画『スワンソング』の筋書きだった。
他人の視線も意に介せず、ゲイとして我が道を行く人生を送ってきたパットが、いまやその我が道も行き詰め、老人ホームでただただ停滞したときを過ごすに甘んじている。
そこからは元親友の死化粧を施しに向かうためにサンダスキーの町の中心部へと赴くという、とてもこじんまりとしたロードムービー(って言えるのかなあれ)が描かれていたが、これはまた我が道を行くための出発の旅路ではない。進んできたその道をパット自身が振り返るための回顧の旅路であると自分は捉えた。
老人ホームを抜け出したときにはTシャツにグレーのパーカーという勇者(レベル1)の初期装備のようだった彼が、終盤には浅緑のスーツにスカーフ、黒のハットという伝説の装備を揃えていく様子がRPGのようで面白くもあるが、そうこうするうちに彼は身も心も我が道を突っ走っていたあの頃へと戻っていく。
そこで重要となってくるのが、2体の幻影の存在だった。それというのも、過去、公衆トイレに篭ってイチモツ狩りばかりしていたゲイ友だちのユーニスと、死化粧の依頼者であるリタであるが、このときにはいずれも鬼籍に入っている人物だ(ユーニスについてはそれを隠した描き方がなされていたから、ベンチでの語らいを終えたシーンでわかって寂しくなったな……)
この幻影、はじめはパットのイマジナリーな存在なのかな?とも考えた。ただ、それだとリタの幻影が謝罪の言葉を口にするクライマックスのシーンがうまく映えないんじゃないか。パット自身が過去のリタとの問題を「まぁ、彼女ならこう言ってくれるでしょ!聞いたわけじゃないけどサ!」と半ば強引に自己解決するだけのシーンになってしまう。
あの世にまで現世のわだかまりを抱えさせるな。どうせ死人に口なしだ。じゃあ、自分の思うように捉え直してお互いスッキリ逝こうじゃないの!と、はぁ、そういうメッセージだとするのも個人的にはアリだなぁ……とは思ったりするものの、なんかこの映画のメッセージとは違うような気がしてならない。
かといって、ユーニスとの会話を振り返ると、ゲイカップル(彼らもそこには存在しない幻影だった)のこともあるので、これまた亡霊と決めつけるのもおかしいような……
うーん……と考えた結果、これは白黒つけずに両方の側面のある「幻影」として捉えるのがいちばんだなという結論に至ったのだが、監督はこの幻影を、LGBTへの風当たりが強い先の時代をゲイとして生き抜いた先達に対する労い、そして、感謝の気持ちというメッセージを込める入れ物としても使っていたように思った。
考えると、エイズへの差別意識が世論に多くはびこっていなければ、リタはデビットの葬儀にももちろん参加して、彼の死後にもパットの親友でありつづけただろう。パットは時代によって友情を引き裂かれた被害者ともいえ、リタの幻影による謝罪、ダスティンによるリタとの会話内容の告白はそのケアとなりうる。
ユーニスとの会話中に幻影として現れた子育て中のゲイカップルも、パットたち世代が我が道を行くことを折れて諦めてしまっていれば、叶うことのなかった日常かもしれない。
同じくゲイを公表しているトッド・スティーブンス監督は、そんなパットたち世代が苦労して生きた先に生きている。
そういう意味で、この映画『スワンソング』は先の時代を生きた彼らにふたたびスポットライトを当て、終わったひととしてでなく、いまを生き、これからを生きるゲイの礎としての輝かしさに賛美を送るような作品だったのではないか。
正直なところ、ちょっと花を持たせようとする気持ちが先行しすぎているかな?という気がしなくもなくて、パットの家の跡地で生活を始めようとしている夫婦しかり、彼のことを優しく受け止める人物が多いな~という印象は否めない。
自分の心が荒んでいるだけ?いや、パットのあの性格のことを考えると、こんな両手に抱えきれないほどの花を持たされたところで、道端にポイポイっと捨てちゃうと思うんだよなぁ。
なにしろ初対面のひとがくれた友人の遺品であるハットから、花飾りを取って捨てるくらいのひとだから笑
映画『スワンソング』。テンポがすこし悪かったり過剰演出なところはあれど、憎らしくも愛おしいキャラクターたちに魅了され、ウド・キアーの新たな一面も発見できる良い作品だった。
パットが遺したスワンソングは、これからも長く自分の耳に残っていくだろう。そんな気がした。